孤独を生きる

どれくらい前だったか忘れたが、
はっきりとした内容もうろ覚えなのだが気になっていた。

ヘレンケラーの目が見えない、耳が聞こえない、しゃべれないの三重苦。
そのうちのどれがいちばん自分にとって辛いものなのか?

そんなことを訊ねたという。

今のところ、健常なわたしには想像がつかないことであって
まして、どの障害がいちばんのネックになるのかなどとは
訊ねることなどできないのだろうなあ。

もちろん、当事者同士は会話を通して対等な関係での
インタビューによって発せられたのだとは思うので、障害に関して
当事者に質問する云々は問題ではない。

わたしが興味を持ったのは、その質問に対するヘレンケラーの答え。

目が見えない、しゃべれないことは、自分にとっては
他に変わるものがあるからさほど困らない。
聞こえないことが人間のいちばんの苦労、苦痛である。

日頃、細々とした雑事に追われ、心の余裕も失いがちになることもある。

他人の噂話やどうでもいい営業電話。
横柄な口調で一方的にまくしたてる。
いちいち、うるさいのだ。

そんなとき、いっそ必要なことも何も聞こえなくなってしまったら
吐きだめになった自分から解放されるのに。
ま、そんなことも失礼ながら思うこともあった。

だから、ケラー女史の耳が聞こえないことが
精神状態をも揺るがすほどの障害だったことに少なからずの驚きを
感じた。

何も聞こえない世界は、人との関わりから排除されるような
ひじょうに大きな孤独を感じるのだという。

しょうがいと言っても、人それぞれである。
心であったり、体であったり……。
自分の能力だったり、人間関係であったりもする。

だけど、そのときに
ストーンと腑に落ちたような気になった。

音のない世界

想像だにしてこなかった世界だ。
だけど、ケラー女史は耳が聞こえないことは
世界から隔離された位置におかれてしまうのだ、と。
孤独は生きる希望も勇気も摘み取ってしまうとも。

感情や言葉を持つ人間にとっては
人との意思疎通があるからこそ、何気ない日々でも生きていける。
庭の木に小さな芽が出て来たんだと言う
ささやかな出来事にも喜べるのだ。

それは、自分の言葉で誰かに伝え、伝えられた誰かが
受け止めて返してくれるから。

姑も最近はわたしの顔を見ると、同じことを何度も言う。
嫁いだ娘のことを案じていることが多いので、
それは親としての気持ちがまだまだ残っているのだが。

当の娘は、兄である夫には電話をしてくるくせに
母である姑には音沙汰なし。
わたしが話し相手になることによって姑の孤独が和らぐのなら、
それでいいのだ。



数ヶ月前から、耳が遠くなった母と手紙のやり取りをしている。
それまでは、たまに電話をしてきたり、かけたりして近況を
伝えてはいたのだけど、まるっきり会話が成り立たない。

これじゃ、同居している兄夫婦とも同じなのだろう。
おまけに何度も同じことを聞き返したり、
肝心なことは聞こえない。
周囲は歳のせい、ボケて来たのだよで済ませてしまう。
日常の生活に追われる人は余裕も失いがち。

自分の言いたいことも言い表せず、あきらめの境地になってしまう
老いていく人は孤独を感じてくるのだ。

そんなことを想像していたら、姥捨て山を思い出す。
孤独でありながらも自分の価値を最後まで捨てない母親 の姿を。

「家のためになっているつもりでも、そうは思ってもらえない
のが歳をとるってことなのか」
「家の人たちに迷惑をかけずに逝きたいもんだよ」
「もう、いつでもお迎えが来てもいい心構えはしてあるんだよ」

人間は生まれ出るときも死んで行くときもひとり。

孤独なものなのだろうけれど、さびしいだけじゃなくて
誇りも持てる孤独さがあってもいいじゃないの。

そんな理由で、すぐに投函できるように
切手と便箋、封筒を母に送った。


やっぱり、会話を渇望していたのかと思わざるを得ない。

何と言うことのない日々や近所の老人たちの様子や
庭の草の伸びようを毎回、毎回書き綴ってくる。
手紙で母の体調や心の変動がわかるような気がしてきている。


わたしも日々の日常を知らせている。
高校を卒業して上京して、就職してからは実家に帰ることもなかった。
親孝行のひとつもしないで今に至っているのだ。
せめてもの罪滅ぼしと、終焉までの孝行と思いわたしは母の孤独を
一緒に歩いてみようかと思う。

母は、数日も置かずに手紙を書いては送ってくる。
わたしも母から返事が届く限りは自筆の手紙を書いている。

母がポストまで歩いていける間は、手紙が届く。
今日か、明日にはまた届く。

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